展示会に最後にやってきたお客様 Ⅲ



2012年8月2日(木)

先週の土曜日、Nori に誘われて彼女の家に行った。
待ち合わせは、彼女が教えている武術の教室。
ニューヨークの14丁目と6番街の角にあるビルの4階。

その日はNYでの滞在も7日目。
気が付かないうちに疲れが溜まっていて、
雑踏を歩くのも足が重く、
実は、彼女に会うのも少し億劫になっていた。

教えられた場所のブザーを押して、中に入る。
もう稽古は終わっていた。
畳が敷き詰められているその教室は
空気がすごく澄んでいて、静かで、
気持ちがスーッとした。

Noriさんをお願いします、というと、稽古着姿のままのNoriが現れた。
「ハーイ、いらっしゃいませ。」

黒帯の彼女は、稽古の直後で、髪が乱れたまま。
でも、笑顔が爽やかだ。

せっかくだから何かやって見せて、というと
気軽に「OK」という。
一番得意な棒術を見せてくれた。


当たり前だが、
どの動きも腰が据わっていて、カッコいい。

東洋人の小さな女性がこれだけの術を身に付け
NYの真ん中で教えるようになるまで、
彼女はどれだけ鍛錬をしたのだろう。
強くて柔らかい彼女の不思議さの理由を
一つ目の当たりにした気がする。

道場を出て、食材を買いに街を歩く。
私は疲れているし、食欲もないから、
「いいよ、何かお料理しなくていいものを買っていこう」と言う。
彼女は「魚たべる? 野菜も必要ね。ワイン買っていこうね。
あ、北京ダックも安くて美味しいよ。」
「いいよいいよ、貴女も疲れているんだから、簡単にしよう。」と私。
「そう? そうね。そうしようか。でもワインは必要ね。」

疲れているのは私の方。お料理が面倒なのも私の方。
それを、相手を思いやるように見せかけて言い訳する。
私の悪い癖。

14丁目からSOHOを抜け、中華街に入る。
彼女は、もうお料理をしてくれる気になっている。
「魚、好き?」
「好き。」
「あ、イカもいいねぇ。」
「うん、美味しそう。」
実際に見ると、魚もイカも、野菜も果物も
新鮮でおいしそう。
「これどう? 美味しそうじゃない?
1ポンド99セントよ。すごく安いでしょう?」
確かに、安い!
「さくらんぼ、こんなに入って2ドルよ。買っていこうか?」
「野菜も新鮮よ。安いじゃない。」
みるみる手の荷物が重くなる。

自分一人なら、ぜったいに近寄らない中華街。
人込みと猥雑さに参ってしまう。
ところが、不思議なことに、Noriと一緒に歩く中華街は
なんだかリラックスして、楽しい街になってきた。
「中華街は、時々くるの。普段は来ないよ。汚いからね。」
歯に衣着せない。
「でもね、ここは好きよ。飾りがないから。
NYはどこも虚飾だらけ。きれいに優しそうに見せかけて、
儲けることばかり考えている。
中華街は、汚いけれど、その奥がないからね。安心するね。」
うん。言われてみれば、そうだ。
食べることが好きな人たちが、安くて新鮮な食材を求めにやってきている。
中国系ばかりではなく、白人の姿もちらほら見える。
「昔は中国人ばかりだったけどね、
最近はアップタウンの人たちも、その良さが分かってきたんじゃない?
だから、値段も少し上がってきたのよ。」
ふうん。これで上がっているのか。

どうしても北京ダックを食べさせたかったNori。
だけど、一緒に並んでいたチキンの方が新鮮に見えて、それを買った。
「食べ物の新鮮さは、とても重要。体に大切だからね。
私は新鮮さにはうるさいよ。」

手にいっぱいの食材とワインを抱えて、
私たちは地下鉄に乗った。

降りた駅は、ブルックリンに入って、15分くらいのところ。
私も昔住んだことのある懐かしい町並み。
その一軒を、彼女は夏の間だけ借りて住んでいる。

出迎える猫たちに、Noriは猫撫で声で話しかける。
「Hi Oni-chan, how are you?」
英語が赤ちゃん言葉になっている。

テーブルをぱぱっと整え、
手際よく準備が進む。
魚をオリーブオイルで焼き、塩コショウとシナモンをかける。
イカもざっくり切って、オリーブオイルと塩コショウ、そしてライムを一振り。
青梗菜もささっと炒める。
ほうれん草とマッシュルームのサラダもあっという間。
その間、おしゃべりは止まらない。

私は、「うん、へぇ、そうなの」と相槌を打ち、
手はワインの栓を抜き、チーズを切って、クラッカーを並べただけ。
なんというスピードの違い。
でも、彼女はそれを楽しんでいる。
私もそれを楽しんでいる。

その晩は、食べた。食べた。
どのお料理も、素材を味わって、とても美味しいい。
飲むことより、食べることを堪能した。

蝋燭の明かりの下で、彼女はいろいろなことを話してくれた。
NYでの生き方から、美容のことまで。
実に様々なことを話してくれた。

「気がね、滞っている気がするよ。」
「気?」
「私は気が読めるのよ。あなたは気が止まっている。
だから、人込みで疲れてしまうのよ。」
「ふうん。そうなの。」
「気を流したら、大丈夫よ。私もすごく人に敏感。
でも気を流す修業をしたから、もう強くなった。大丈夫。」
「どうやったら気を流すことができるの?」
「深呼吸でいいの。大きく吸って、強く吐く。
これを朝20回、夜10回やってみて。良くなるよ。」

Noriがやるように、深呼吸をやってみた。
3回やっただけで、閉じそうになっていた瞼が軽くなった。
頭が軽くなった。
「気を流したら、あなたはこれからすごくよくなるよ。
素敵な人もすぐ現れるよ。」
これはすぐにやらなくちゃ。
深呼吸だけでいいのだ。
俄然やる気が出る。

帰りにNoriはあれもこれも持って帰れという。
まるで実家に帰った娘のような気になる。
「いいよ、いいよ、おかあさん、そんなに食べきれないから。」
残った野菜とチキンをまとめ、
さくらんぼとバナナを入れて、簡単なお弁当を持たせてくれた。

彼女が持たせてくれたお弁当のお蔭で、
私はその後一度も外食せずに済んだ。
ありがとう、Nori。
心からこの不思議な出会いに感謝する。

次の日はニューヨーク最後の一日。
私は身も心も軽やかに、街中を歩き回った。



「展示会に最後にやってきたお客様 Ⅰ」

「展示会に最後にやってきたお客様 Ⅱ」



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