harukiiオリジナルパッケージのこと Ⅲ



2013年8月27日(火)

今、楽しみに待っているものがある。
それは、新しいパッケージ。
商品を入れる、ギフト用のパッケージだ。

パッケージは、すでにあるのだが、
今回は一回り小さなものを作った。
ちょっとしたプレゼントに。
さり気なく、渡せる大きさで。
そんなリクエストをもらっていた。

デザインは、従来のものと同じ。
サイズを縮めた。

その名も『tatou-S』(タトウ、エス)。
作って頂いているのは、もちろん福永紙工さん。
使用する紙も、仕様も同じだ。


といっても、単純に相似形というわけではない。
そこはデザイナーの中村麻由美さんのセンスで、
一番しっくりくるタテとヨコのサイズを選んでもらった。

ストールを取り出した後、
何に使うか?
B5サイズの書類が入る。
便箋や葉書きも入る。
手紙を書く人がめっきり減ってしまったが、
たまには手書きの文字で、便りを書き、
切手を貼ってポストに投函するのもいいものだ。
私も、手書きの手紙やはがきをもらったら、
これからはharukiiの新しいパッケージに大切に保管しよう。

あ、いやいや。
ついつい、「その後の使い方」に思いを馳せてしまう。

これはストールのギフト用パッケージ。
もちろん、最初のバージョンと同じように、
メッセージカードも入れられる。

これからは、このパッケージに入れるような、
小さいサイズのストールを
もっとデザインしていこう。

今週土曜日の到着が、
待ち遠しい。


harukiiオリジナルパッケージのこと Ⅰ

harukiiオリジナルパッケージのこと Ⅱ




行って見てきたわけではないのだけれど



2013年8月15日(木)

今日はお盆である。
日本の多く人が仕事を休み、家事を休み、身体を休めている。

そして、多くの人がお墓参りをしたり、先祖の供養をしたり、
亡くなった人のことを思い出したりしている。

『この世』と『あの世』というものが存在しているとすれば、
私には、まだあの世よりこの世の知り合いの方が多い。
しかし、あの世にもだんだん知り合いが増えてきた。
早晩、あの世の知り合いが過半数を超える時が来る。
いや、その前に自分自身があの世に行くことだって、あり得る。

そう思うと、あの世の人口密度はどうなっているのだろう。
人に限らず、生き物がどんどんあの世に行っている。
毎日、毎時、毎秒。
あの世の門前には長蛇の列。
すごいことになっているはずだ。
あの世には制限はないのだろうか。
「今年は、もうここで打ち切り~。
はい、ここからの人は、戻って戻って。
来年また来てみて下さい。
早いもの順ですからね~。」

いや、あの世は三次元ではなく、四次元、五次元、六次元と、
こちらの概念とは全く違う構造になっているらしいから、
「混む」とか「増える、減る」「重い、軽い」などという
質量、重量など、量については考えなくてもいいのかもしれない。

魂の数、というものも、ないのだろうか。
あちらにいくと、そういうのは個別ではく、
ぜーんぶひと塊になるのだろうか。

うーん、行ったことがないから分からない。
行った人に話も聞けないから、分からない。
いったい、どうなっているんだろう。
だれか、しっかり行って帰ってきた人はいないだろうか。

もし、として考えるしかないのだが、
魂の数が存在する、としたら、
あの世に行けは、祖先のすべての魂が居る。
会ったこともない祖先にも会える。
私が知っている範囲は、曾祖父母ぐらいだ。
その上の(前の)人たちには、どこまで遡って会えるだろう。
原始人時代の祖先にも会えるだろうか。
言葉は通じるのだろうか。

あ、そうだ。
輪廻転生というシステムもあるらしい。
そうすると、行ったとたんに、
「あ、入れ違いだったね、さっき生まれ変わっていったよ」
という魂も、ごまんとあるに違いない。

それだったら、あの世の人口が過多になることはない。
この世とあの世は、丁度よく均衡が取れているのかもしれない。
それなら、安心だ。
やはり、あの世でも密度が高いのはいやだ。
満員電車は、この世だけにしてほしい。

そんなことをつらつら考えていて、ハタと思い当った。
生まれ変わりがあるとしたら、
自分の祖先に、今会っているかもしれない。
自分の祖先が、今まさに生まれようとしているかもしれない。
自分の祖先が、外国で有名人になっているかも知れない。
そういう色々なことが、あり得るということだ。
だって、祖先はゴマンといるのだもの、
この世に生まれ変わっている祖先もゴマンといるに違いない。

もしかしたら、68年前のあの日、
ボタンを押したその人、
操縦していたその人の祖先が、
広島や長崎にたくさんいたかもしれない。

72年前のあの日
ニイタカヤマに上った人たちの祖先が
あの太平洋の美しい湾にいたかもしれない。

私たちが日々非難している国に、
多くの祖先が生きていて、
私たちはその祖先を攻撃しているかもしれない。

こう考えると、
仲が良く、愛し合う相手も、
利害関係があり、憎しみ合う相手も、
本当は魂がつながっているかもしれない、と思うのだ。

どんなレベルの諍いも、してはいけないのだ。
それは結局、自分自身を傷つけていることになるのだから。
相手に向けた刃で、自分の身を切っている。
そういうことをしているのだ。
相手も自分。自分も相手。
区別など、ないのだ。
あの世の魂が個別でも、個別でなくても、
この世に生を受けている魂は、その一部なのだ。

これはあくまでも、『あの世』と『この世』が存在し、
魂が生まれ変わる、という説を信じた場合の考え方だ。
まったく空想、妄想の域を出ない。

でも、『あの世』があって、魂は生まれ変わる、と考えると、
なんだか楽になる。生きやすい。
あの世にいって、初めてこの世でのいろいろなことの謎が解ける。
そう思ったら、早くあの世に行ってみたい気もする。
いやいや、その前に、目前に山積するいろいろな課題をクリアしなければ、
門前で追い払われるだろう。
「あなた、まだ名簿にありませんよ。
さぁ、帰った帰った。
しっかりお勉強して出直してらっしゃい」
なんてね。

どんなレベルの争いも、
決してしてはいけない。
傷つける相手は、自分自身なのだ。
そんな考えに至った、今年八月のお盆。
そして、終戦記念日でした。




これはなんでしょう。



2013年8月7日(水)

これはなんでしょうシリーズ、第?弾。



かなり干からびた何か、ということはお分かりでしょうか。

もしかしたら、これに馴染みのある方は、
少ないでしょうか。
これは、
 赤紫蘇を干しているところです。

毎年、母が漬ける梅干しは、
赤紫蘇の葉で、真っ赤に染まる。
それを3~4日、真夏の日差しにさらし、
カラカラになるまで干す。
そして母はそれを細かく砕いて、ゆかりにしてくれる。

 あ、人魚の三蔵法師だ。

これはトナカイとダンスしている人。
お下げ髪のダチョウも踊っている。

今年の紫蘇も、楽しげに仕上がっている。
夏の味。
すっぱい味。
これを食べると、夏だなぁと思う。