子守歌



2013年7月30日(火)

最近、家の中で歌声を聞くことが多くなっている。
生の声は始終耳にしているが、
改めて、生で聞く歌声は、なんとも言えない味があるなあと感じる。

その中で一番素敵なのは、
子守唄ではないだろうか。

聴かせる相手一人のためだけに、
相手の呼吸のリズムに合わせて、
なるだけ心地よい音で歌う。
こんなに贅沢な歌は、なかなか聴けない。
そこでは、上手とか下手とかは全く不要なことで、
ただただ相手が心地よくなるように、
ぐっすりと良い眠りを持てるように、
相手のことだけを思って歌う。

子供の頃、『シューベルトの子守歌』が一番好きだった。
歌い出しのメロディーとリズムが、
なんともいえず優しく、自然に眠りを誘うような感じだった。
とは言っても、母が耳元で歌ってくれたのを覚えているわけではなく、
母が鼻歌で家事をしているのを聴いて覚えたような気がする。
幼いころのことなので、あまり覚えていない。

子守歌と言えば、他に『モーツァルトやの子守歌』もあるが、
こちらはシューベルトに比べて、すこしテンポが速く、にぎやかだ。
眠るのを急かされている気がする。
幼いころから、なんでも速いのが苦手なのである。
その点では、ブラームスも好きだ。

最近、古い歌の本をめくっていて知ったことなのだが、
モーツァルトの子守歌は、モーツァルトが作った歌ではない。
作曲者がベルンハルト・フリースとなっている。
なんでも、モーツァルトと同時代のお医者さんらしい。
どうしてお医者さんが作った曲が、
モーツァルトの作品として有名になってしまったのだろうか。
それでも、いまでも曲名は変えられずに、
『モーツァルトの子守歌』として知られているのが面白い。

子守歌は、何を歌ってもよい。
子守歌として作られた歌でなくても、
歌う人が好きで、聞かされる人が心地よければ、何でも良い。

私は何を耳元で歌ってもらうのが一番好きだろう。

う~ん。思いつかない。
もしかしたら、寝る時は無音が良いかもしれない。
枕に頭が付くと、すぐ眠ってしまうし。
聴く暇がない。
残念なことだ。
これから、万が一子守歌を歌ってくれるような人が現れたら、
頑張って起きていよう。

それよりなにより、
私の子守歌を喜んで聞いてくれる人は、
どこかにいるだろうか。
隠れていないで、早く出てきてほしいものだ。




夏の光の中で Ⅱ


2013年7月24日(水)

この歌をずっとイヤフォンで聞きながら、
いつも通っているクリニックの帰り道を辿っていた。

地下鉄の入口に入りかけて、ふと目をむこうにやった。
鬱蒼とした森が見えた。
そうだ、いままでクリニックには何度も来ていたのに、
一度もここにある公園に立ち寄ったことがない。
今日はこの曲をGBMにして、
公園に入ってみよう。

入場料を払ってゲートの中に足を踏み入れた途端、
噎せ返るような緑に包まれた。









都会には、こんなに豊かな森がある。
夏の歌が、私を緑の世界に連れていった。
私はしばし呆然と緑を見つめた。





夏の光の中で



2013年7月16日(火)

もうかなり昔に聞いた歌を、この季節になると必ず思いだす。

『夏の光の中で』

木村恭子という人が作って歌っている。


  夏が  草いきれの中を  麦わらの色して 駆けてくるよ

  夏が  水玉模様の  あの頃の思い出  染めてくるよ

  あなたはいつの間にか この部屋を抜け出して

  もう溶けてしまった光の中を

  子供のようにはしゃいでいた

  夏の光の中で  夏の光の中で


これだけの、とても短い歌だ。
それを、多分作者自身が歌っていたのだと思う。

草いきれ
麦わら
溶けた光
こんなことばをちりばめて、夏のある一瞬を、ゆっくりと切り取っている。

高校生の頃だったろうか。
初めて聴いたのは。
いとこのお兄さんが家に置いていったレコードに入っていた。
聴いた瞬間に、ぱーっとその情景が広がった。
濃い緑の匂いや、爽やかな風が
どこからから流れてくる気がした。

それ以来、夏になると必ず口ずんでいる。
歌詞も、一字一句間違えずに覚えている。

この夏私は木村さんご本人が歌うバージョンを、
iTuneで購入した。
この歌だけを、何度も何度も飽きずに聞いている。
どんなに暑い時でも、この歌が始まった瞬間、
どこからか森の匂いがし、そよ風が吹いてくる。
そして、光はとてもやわらかくなっている。


*残念ながら良い動画がなかったので、今回はリンクを貼りませんでした。



夏の食



7月12日(金)

これを食べると、ああ夏だなぁと思う食べ物がいくつかある。

・茗荷
暑い日に冷奴の上に千切りを乗せ、
お醤油をちらりと掛けて食べる。
大葉の千切り、生姜のすりおろしがあれば、なお良い。
どれも一年中食べられるが、
真夏にたべるのが、一番美味しい。

・とうがん
鴨瓜ともいう。
故郷では、大豆をつぶしたものでだしを取り、
干しエビと一緒にお醤油で炊く。
(煮る、というより炊くと言った方が似合う気がする。)

・西瓜
言わずもがな。
皮に近い白いところの青臭いのも、夏の匂いだ。
水分が多く、乾いたのどにジュワっと染み入る。
八百屋さんによると、最近は小ぶりのスイカがよく売れているそうだ。
皮が薄くて、とても甘い。
冷蔵庫にも入れやすい。

・みゆき茄子の糠漬け
新潟の茄子だという。
ころんと円く、小さい茄子だ。
皮が薄く、中の白いところはさくっとしていて、
かつとても柔らかくて瑞々しい。
糠漬け自体が夏の味なのだが、
このみゆき茄子がでると、
あぁ、本当に夏が来たのだ、と感動する。

茄子の漬物は、特に好きだ。
それは、色がとても美しいからだ。
茄子紺から青紫、赤紫、茶色と、いろいろな色が混ざり合って、
果肉の黄味がかった白さと美しい対比を見せる。
その色も、空気に触れるとすぐに退色してしまう。
糠から出したすぐが、一番美しい。
その時にすぐに食べられたら、そんな贅沢はない。

ここにも、茗荷の千切りを載せて、
お醤油をほんのちらりと掛ける。
絶品。

日本の夏は、目も舌も楽しめる。




想像力をかき集めてみたけれど。。。



2013年7月10日(水)

梅雨が明けた直後なので、
今が夏本番、
夏真っ盛り、
真夏の中の真夏、ということなのだろう。

冬の間はいつも、「こんな寒い日が続くより、猛暑の方が過ごしやすい」
と思っている。
冬は何枚着込んでもちっとも暖かくならないのに、
夏はもう、体温と同じ気温なのだ。
何も着る必要がない。
体が気体に溶け出し、融合し、一体化する。
なんという自由。
なんという幸福感。
真夏はなんとすばらしい季節なのだろう。

その待望の夏が、今なのだ。
待ちに待っていた夏なのだ。

だから、私は今幸せだ。
いくら体温より気温が高くなっても、
寒いあの日々に比べて、なんと過ごしやすいのか。
毎日が極楽だ。

そう思って、
酷暑の中、
ぐったりとしながら、
持ちうる想像力を結集させて、
必死に寒い日のことを思い出してみる。

そうそう、朝はまだまっくらで、吐く息は白く、
なかなか起き上がれない。
雪がぼたぼたと降る日は手がかじかんで、
傘がうまく開けない。

そうそう、冬はストーブをつけても
なかなか部屋が温まらず、
ダウンコートを着たまま、ストーブの前に陣取る。

冬はビルの間を吹き抜ける風が身を切るように冷たく、
コートの襟を掻き合わせる。

。。。などと、必死に冬の苦しさを思い出してみる。
でも。

だめだ、だめだ、だめだ。
あづい、あづい、あじゅい~~~。
涼しくなんてちっともならない。
雪を思い出しても、かき氷が食べたくなるだけだ。
もう、どうにかしてほしい、この暑さ。
脱げるものなら脱いでしまいたいこの暑さ。

冬の間はまっぴら御免、行きたい人の気が知れない
と思っていたが、
今のこの時期だけ行ってみたい、
スウェーデンのアイスホテル。


ひ~んやりと、気持ちいいだろうなぁ。

私の想像力は、かくも脆弱だ。
がっかり。


アイスホテルのウェブサイトはこちら >>>




へちま 2103 Ⅱ



2013年7月3日(水)

先日インターネットで注文したヘチマとゴーヤを、地植えにした。

 購入したのは、全部で6株。
新潟県から取り寄せたヘチマ3株と
 沖縄から届いたゴーヤ3株。
上手く根付いてくれるだろうか。
 あらっ?
よく見ると、地面から双葉が。
これは、まぎれもなく、ヘチマの双葉。
小さい本葉まで出ている。
去年のヘチマの種から自生したのに違いない。
頑張れ、世田谷産のヘチマ!


「ちょっと。邪魔なんだよ。どいてくれ。」
背後から、低い声が!
なに??


 ヒッ! だれっ?

 あ~、あなたね。びっくりした。

「『あなたね』じゃないだろう。いつもここにいるのに。」

はい、すみません。ちょっとヘチマに夢中になって。

声の主は、我が猫の額の番馬、兵馬俑(へいばよう)のレプリカだ。

我が家で一番気品のある生物だ。
むかーしむかし、中国から我が家にやってきた。

すらりとしていて、がっちりしていて、
逞しいことこの上ない。

残念なのは、小さくて乗れないこと。
もし乗れるほど大きかったら、
さんざんまたがって、遊んで、
とうの昔に壊していただろう。
小さくて良かった。
 そうそう、今年もお願いしますよ、ヘチマとゴーヤの番。


「番って、何をするんだ。ただここに立っているだけだろう。」

そうでございます。
そこにそのように佇んでいて下されば、
それで十分でございます。
きっとあなた様のその慈愛に満ちたまなざしから、
滋養ビームがヘチマたちに注がれ、
彼らはすくすくと安心して大きくなっていくでしょう。

もし豊作だったら、好きなの一本あげるわね。

「いらん。」



※兵馬俑(へいばよう): 古代中国で死者を埋葬する際に副葬された人形のうち、兵士及び馬をかたどったもの








氷室饅頭 Ⅱ



2013年7月1日(月)

今年も送って頂いた。
金沢の氷室饅頭。
ああ、あれから早や一年なのかと、
時の経つことの早さに驚く。


去年の自分のブログを読んで、
「ああ、氷室饅頭とはこういうものだったか」と
その来歴、当時の風習を復習する。

今は冷凍庫で簡単に作れる氷。
この大変な蒸し暑さの中で、
毎日家庭で、氷をどれだけでも作れることが有難い。

電気冷凍庫が開発される以前は、
氷室が活躍した。
氷室は、日本だけではなく、世界中にあるようだ。

美しい写真を見つけた。



(スミマセン。写真をこのページから、勝手に転載しました。)

     >>>

これらは、Yakhchal(ヤフチャール)と呼ばれる、古代の冷蔵庫だ。
中では、氷も保存された。
より効率的に、機能的にと改良された末の形なのだろう。
とても美しい円錐形になっている。
広い大地、青い空の中に、ぽっかりと浮かぶその円錐の建造物は、
なんと優美なのだろう。

そして、その内部は更に美しい。
ここに転載できないが、ぜひぜひ見てほしい。
Quintin Lake(クィンティン・レイク)という建築物専門の写真家の手による。

   右の矢印をクリックして下さい。 >>>

煉瓦のようなものを積み重ねているのだろうか。
眩暈がするほど、丹念な作業だ。
冷蔵・冷凍機能を高めるための構造。そして、材料。
それを現実に作り上げるために必要だから行ったのだろう。

幾日も幾日も、何時間も一つの作業を繰り返す。
いつ終わるかもわからない。
だけれど、目標に到達するためには、
完成させなければならない作業。

命令する人がいて、指図される人がいて。
作業する人は、それが後世で芸術として評価されるとは想像だにせずに、
もくもくとこの作業を続けて。

それだから、なおさら美しく目に映るのかもしれない。
機能を追求すると、究極の美に到達する。
単純な作業を繰り返し繰り返し重ねていくと、
誰も到達しえなかった高みに上れる。
そんなことを改めて確認する写真だ。


氷室饅頭のお蔭で、また新しく美しいものを知った。
いつかこのYakhchalを、実際に目にしてみたい。
明日もまた、氷室饅頭を頬張りながら、
しばし地球の裏側の氷室に想いを馳せることにしよう。


氷室饅頭 Ⅰ