2012年6月24日(日)
端正な顔のストールを一枚作りたいと思った。
ストールというか、スカーフというか。
きちんとした装い、というものに
年々惹かれていくようになったためか。
幼いころ、「よそ行き」という言葉があった。
今の若い人も使うのだろうか。
「よそ」に行くといっても、田舎に住んでいた私にとっては、
金沢にあるデパートにバスで行って
お子様ランチを食べることぐらいしかなかった。
結婚式やピアノの発表会は、「よそ」の中でも最上級。
これは、「晴れ着」の範疇に入る。
着物ではないが、ちょっとやそっとのイベントでは着られない。
そんな風に、まだ小さい私にさえ
着る物にランクがあった。
もちろん、それは親が決めたもの。
どういうものが「晴れ着」でどういうものが「よそ行き」なのか
その基準は親によって決められていく。
それが、一生を通じての自分の規準となっていく。
ずっと日本では、その基準が独りよがりではなかった。
まわりの人との結びつきが密接で
良くも悪くもお互いの目が気になったころ、
日常生活の細々としたことに至っても、
すべてのランクの規準は、その生活文化圏で共通だった。
私が子供だった1960年代。
花が咲くように自由が謳歌され始めた。
それでも、生活の諸事にまだまだ格付けがあった。
私は成長期に入ると、それがいちいち煩わしくなってきた。
しきたりや常識というのが
まとわりつく蜘蛛の巣のように感じられた。
随分長い間、反抗したと思う。
しかし、今ではその反抗心はすっかり消え失せ、
親が決めたランク付けの中に、すっぽりと収まっている。
どうしたことか。
歳をとるとは、こういうことなのか。
「帰ってきた」という感覚。
先日病院に検査に行った。
出かけるときに、呼び止められた。
「え、ジーパンで行くの?」
病院、ジーパンじゃいけないのか。
「先生に看て頂くのに、失礼じゃない。」
はぁ、そういうものか。
その時は、着替えるのが面倒臭く、
ジーンズのまま出かけた。
病院に行って見回す。
きちんとしている人、ラフな人、様々だ。
男性も女性も、年齢が上がるにつれて、
「よそ行き」と思われる装いをしている。
病院でラフすぎると、なんだか崩れる感じがした。
せめて入れ物だけでもきちんとしないと、気が滅入る。
シニアの方は、それが分かっているのだろう。
先生や看護婦さんのために、ほかの患者さんのために、
そして、自分自身のために、よそ行きで診察にいらしている。
「よそ行き」の力を見た気がする。
機屋さんから、きちんとした印象のストールを借りてきた。
これを今から料理する。
さぁて、どういうふうにしようか。
photo by a tai.
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