♪ 童は見たり、野中のばら



2012年11月20日(水)

なぜか、何のきっかけがあったのか、
全く分からないが、
今日はこの歌が、頭の中で何度も鳴っている。

♪ 童は見たり、野中のばら
 清らに咲ける、その色愛でつ
 飽かず眺む。
 xxx匂う、野中のばら。

xxxの部分が、どうしても思い出せない。
他の部分さえ、合っているかどうか覚束ない。

こういう時に便利なインターネット。
早速検索、検索。

ありました。
ゲーテの作詞。へぇえ、知らなかった。
きっと小学校の音楽の時間に習ったんでしょうに、
すっかり忘れています。

作曲は、シューベルト版とウェルナー版がある。
今日私の頭の中でなっているのは、シューベルト版。
ウェルナー版って、どんな曲かしら?

これもインターネットの便利なところ。
クリックすると、聞こえてきた。

あ、これも馴染みのある旋律。
小学校の時は、こちらの方が好みだったように記憶している。
ウェルナー版の方が滑らかで、ちょっと大人っぽい。(小学生にとって。)
シューベルト版は、単純に明るく、
NHKの『お母さんといっしょ』にでも出てきそうなメロディ。

随分と大人になった今は、どちらが好きだろうか。
うーん、どちらも、甲乙つけがたい。
なんて、私ごときに甲乙つけてもらっても、
シューベルトもウェルナーも片腹痛いことだろう。

いろいろな情報の波にもみくちゃにされる生活をしていると、
シューベルトの単純な明るさは、とても有難い。
また、ウェルナーの滑らかな旋律は、
心を癒してくれる。
大人になるって、好きなものが増える、のかもしれない。

で、冒頭のxxxの部分。
日本語の訳詩は、近藤 朔風(こんどう さくふう)という人のもの。

1
童(わらべ)はみたり 野なかの薔薇(ばら)

清らに咲ける その色愛(め)でつ
飽かず眺(なが)む
紅(くれない)におう 野なかの薔薇

2
手折(たお)りて往(ゆ)かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇

3
童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香(いろか)
永久(とわ)にあせぬ
紅におう 野なかの薔薇

xxxの部分は、紅だった。
匂うといっても、薔薇の香りが匂っているのではなく、
「紅い色が、美しく照り輝いている」という意味の「匂う」だろう。

明治のころの歌詞は、とても美しい。
言葉の選び方が、何と言えばいいのだろう。
情緒豊かで、たおやか、とでも言おうか。

この歌詞を文語体、と読んでよいのかわからないが、
話し言葉ではない。
話し言葉ではない歌詞の曲など、
最近では全く作られていないのではないだろうか。

誤解を恐れずに言うと
私は『君が代』の歌が、大好きだ。
この歌を幼いころ、最初に聞いたときから、
きっとずっと好きだったのだと思う。

まず、あの旋律が好きだ。
なんとも厳かで、豊かで、西洋音楽に無い音階だ。
不思議な終わり方をする。
「和音を付けられない」と聞いたことがある。
編曲しにくいのだ。

そして、詩も大好きだ。
『君』が誰、または何を指すのか知らないまま、
または考えないままで、
ただ美しい歌詞だなぁと思ってきた。

  君が代は、
  千代に八千代に
  さざれ石の巌となり
  苔のむすまで

英語に訳したら付けなければならない主語、動詞が
出てこない。
もちろん、それは今発見したことだが、
日本語特有の、曖昧で、中途で切ってしまう言葉の使い方が、
子供の心に優しく、美しく染み入ってきたのだろう。

今でも『君が代』を聞くたびに、
その優しさ、美しさは色褪せることなく私の中に入って来る。
私にとっての『君』は、
あなたであり、私であり、地球であり、宇宙である。
すべてが永遠に続く、という意味である。
そんな、宇宙の大命題のようなことを、
この短い言葉で表してしまうなんて、
昔の人の芸術性の高さに、恐れ入ってしまう。

様々な考え方、思いがあろうと思うが、
願わくば、『君が代』が国家として、
これからも永く歌われ続けてほしい。



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