クリーンヒット



2013年2月12日(火)

終電近くの地下鉄に乗った。
かなりの混みようだ。
何本もの線が乗り入れている大きな駅で、
更に多くの人が乗り込んできた。
そのほとんどが、きっと酔っぱらっている、という車内。

私は、二駅先で降りる。
正確には、急行に乗っているので、
一駅飛ばして、その次の駅までドアが開かない。
その開く方のドアに向って、目を閉じていた。
「はやく着かないかなぁ」と思いながら。

左後ろから、先ほどの駅で乗り込んできた男女の会話が聞こえる。
男性は、明らかに酔っぱらっている。
声からすると、二十代後半。
若いのに、酔うとくどくなる、そんなタイプのお兄さんだ。
その彼に「はい」「はい」と優しく相槌を打っている女性の声は、
二十代前半、といったところか。
「はい」の一言に、微笑みを含ませて、なかなか高度に相槌を打っている。

「ウォルトディズニーがね・・・どうのこうの・・・」
お兄さんは少しろれつが回っていないので、よく聞き取れない。
でも、お姉さんはやさしく「はい」「はい」と応えている。
「でね、マイケル・ジャクソンンがまだ生きているっていう説があるんだよ。」
ここだけは、はっきり聞こえた。

「どうしてかって思うでしょ?」
うん、思う。
「それを説明していると、●●駅までじゃ時間が足りないから、
説明しない。」
なーんだ。

「じゃぁ、彼氏のどこが気に入っているか、三つ答えよ。」
急に絡み酒のお兄さんに変身した。

「うっせー、だまれっすよ。」

???
耳を疑うというのは、このことか。
この言葉を発したのは、「はい」「はい」の女の子である。

「え、いいじゃん、照れなくったって」
「うっせー、だまれっすよ。」
「なんでなんで、彼氏ともう長いんでしょ。」
「うっせー、だまれっすよ。」
彼女の声には、「はい」「はい」と全く同じ、優しい微笑みが含まれている。
だが、口から出ているのは
「うっせー、だまれっすよ。」

もう私の脳みそは完全に???に占領されている。

- 先輩に、だまれ、うるさい、と言えるのか、今日日の女の子は。
- 先輩のお兄さんは、ちっとも怯まない。ということは、
こういう返答に慣れている、ということか。
「うっせー、だまれっすよ」は、二十代の若者には普通のセリフなのか。

こういうセリフを微笑みを含ませながら発する、という、この高度なテクニック。
「クリーンヒット」という言葉が浮かぶ。

私には先輩、同僚、年下、誰に対しても、家族以外に
「うるさい、だまれ」と言える技術を持っていない。
だから、常に我慢をし、「はい」「はい」と聞く。
ときどき、「へぇそうなんですか」と
さも興味を持って聞いているかのように、合いの手を入れる。
でも、実際には聞いていないことがよくある。
聞いていないのだが、
実は私自身にも、聞いていない、ということがわかっていない。

こういう状況では、むかしから
多分、物心ついたころから自分を隠し、表面を繕って生きてきたので、
いざ自分の正直な感情を出せ、と言われても、
それがどういう感情なのかがもう、奥底にしまいこまれていて
出てこなくなっている。

電車の彼女のように、間髪入れずに
「うるさい、黙れ」とは、思えなくなっているのだ。
そしてずーっと後になって、腹が立ってくるのだ。

そういう意味で、彼女の「うっせー、だまれっすよ」は
左中間を抜けるクリーンヒットだと思ったのだ。
または右ストレートと言ってもいい。
致命的なパンチが優しさに包まれているせいで、
受けた方はその威力に全く気づいていない。

もちろんそれと同時進行で
私の脳みそは、彼女の言葉遣いにも、ものすごく反応している。

ごく仲のよい友人に対してでさえ
「うっせー、だまれっすよ」という言葉遣いは、
やはり、品がよろしくない。

そもそも、いくら酔っ払いとはいえ、
先輩に対して「うるさい、黙れ」は言ってはいけないのだ。
常識的には。
こういう場合は、
「あら、ヒミツですよ」と答えるのが、無難であり、一般的であろう。

彼女のような新人さんを会社で雇うようなことになったら、
どうやって教えていけばよいのだろう。
今から要らぬ不安を持ってしまう。

あぁ、そうか。
彼女にひとたび言葉遣いを教えようとしたら、

「うっせー、だまれっすよ」

というパンチが飛んでくる。
感受性豊かな私は、きっと
泡を吹いて仰向けに倒れることだろう。






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