『お宝鑑定』に思う男と女



2012年10月7日(日)

毎週日曜日の午後、居間でつけっぱなしになっているテレビから、
よく聞こえてくる番組がある。
一般の視聴者が、自分の家から『お宝』であろうと思われるものを持って来て、
それを玄人に鑑定してもらうという番組である。

人気があるのだろう。
随分長く続いている番組だ。

この番組、男性がいて成り立っている、と思う。
もっと言えば、
大枚はたいてお宝を買い求め、
嬉々として蒐集するお父さんお祖父さんがいて、成り立っている。
さらに言えば、その男性たちが自信を持ってテレビカメラの前に晒したお宝が、
鑑定の結果、全くの偽物と断定され、
目も当てられないような値段を付けられる瞬間を
心待ちにしてしている視聴者が、いかに多いかということである。
本人の期待額と鑑定額の落差が大きければ多いほど、視聴者は喜ぶ。

こう書くと、その視聴者の一人である私の意地悪さ、残酷さを思い知らされるようで、
非常に後味が悪いが、
言いたいのは、やはり、男性あっての番組だということである。

たいがい、その男性の家族は、お父さん、お祖父さんの蒐集を
冷ややかな目で見ており、その物はガラクタだと思っている。
そんなものにあんなにお金をつぎ込んで、
「バカじゃなかろうか」と思っている。

お父さん、お祖父さんの方は反対に、
この鑑定士たちに自分の審美眼は本物である、ということを証明してもらって、
家族での地位を高めよう、もっと尊敬の眼で見てもらおう、という、
大きな期待を持って挑んでいる。

そういう家族の様子を視聴者は楽しむし、
番組の作り方も、お決まりのようにそこを強調する。

そして、期待通り、お宝には何の価値もなく、
お父さん、お祖父さんは公衆の面前で笑い者となり、
相変わらず許される晩酌のお銚子の数は、
全く変ることはないのである。

ああ、まったくこう書くと、身も蓋もない。
なんでこんな残酷な番組が成立するのだろうか。

そこがポイントである。
この番組を見るたびに思うのは、
「これは、男性だから成り立つ番組なのだろうな」ということ。
もし蒐集する癖が女性に多かったとしたら、どうだろう。
お母さんが、へそくりの100万円をはたいて買ったアンティークの指輪が、
公衆の面前で
「チャカチャン! 100円! 縁日で良く売っていますねぇ」
などと言われたとしたら、どうだろう。
まず、その日から数日間は、晩御飯を作ってもらえない。
偽物を見分けられなかった自分の能力を責めるのではなく、
それを売りつけた相手を恨み、友人知人にそのことを言い触らし、
挙句の果てに、それを買った日に、
「あんたたちが揃いもそろって家を空けたのが悪い」
「一緒に行ったタカハシさんちの奥さんが、これはお買い得だと言ったから」と
もう、手の付けようがなくなる。
そして、一家は暗~くなり、会話が少なくなり、
家族の帰宅が、よけい遅くなる。

つまり、これが女性だと、全く笑えなくなるのだ。

本人が笑えない。
家族も笑えない。
視聴者も笑えない。
これでは、番組が成り立たない。

なぜ男性だと笑ってよくて、女性だと笑えないのだろう。

推測するに、男性だと、
「いいと思いました」「買いました」「騙されました」「損しました」あはは。
それで終わって、また性懲りもなく、
「今度こそいいと思いました」「買いました」「また騙されました」「損しました」「あはは」を
際限なく繰り返すからではないだろうか。
反省も学習もない代わりに、後腐れもない。

しかし、女性の方は「損しました」のあとが「あはは」では済まなくなり、
ずーっとねちっこく考え続け、
その波紋が周りに広く、深く、長く影響する。
家族に火の粉が降りかかってくるのは、間違いない。
だから、周囲もその失敗をからかって楽しむ余裕がない。
やはり、女性だと笑えないのだ。

もちろん、この番組に出場する男性の中には、
その鑑定結果にショックを受け、
笑い事では済まされないような生活を送る羽目になる人もいるだろう。
随分前に、この番組を作るスタッフの方から、
鑑定依頼者の出演交渉はすごく慎重に行う、と聞いたことがある。
「もしこれが、全く価値のないものと判断されたら、
それでも残りの人生を幸せにやっていけますか?」と。
だから、テレビに出ている人たちは、一応、
経済的にも、家族的にもその心配がない人たちだと思っていい。

女性の依頼者もいるが、個人的には男性の方が見ていて気が楽だ。
結果がダメでも、笑っていられる。

でも、こんなことは、近親者に蒐集家や浪費家がいないから
言えることなのだろう。
もしうちの父親が、とんでもなく高価なものを集めるのが好きな人だったら、
こんなふうに、「笑える」とは言えないのかもしれない。
やはり、家族は大変なのかもしれない。

と思っていたら、そうだ、思い出した。
うちにも、あった。
蒐集したものではないが、
父が若いころ、大枚はたいて買ったものが。
価値がないものではないが、
海外出張が決まり、その支度金として会社からもらったお金を全部使って、
カメラを買ってしまった。
私が生まれる前の話。
円が1ドル360円の頃。
そして、海外出張するのに、水杯を差し交わし、
同僚が駅で万歳三唱し、
親族郎党が全員羽田空港に見送りに行った時代。
毎月のお給料では生活もギリギリの時代。
父は、月給の三倍以上の支度金をもらった帰り、
それを全部使い、意気揚々とカメラを買って帰って来た。

あきれたことに、全く同じことが数年後、また繰り返された。
今度は時計も買ったという。
「あいつらに日本製の凄さを見せつけて、あっと言わせてやる。」
「あっ」と言ったのは、母だけである。

今では笑って話してくれる母も、
その時は相当怒った、と思う。
そのカメラがこれ。
一回目のカメラ。
Konica Ⅱ

二回目のカメラ。
Nikon F

もう、だれも使うことのないカメラたち。

それでも、今でもいつもすぐ出せるところに仕舞ってある。
このカメラで、父は海外の写真をたくさん撮って帰ってきた。
私たちが幼いころの家族の写真をたくさん撮ってくれた。
今なら許せる、父の散財。
あー、笑い話になってよかった。
ほんと、よかったね、お父さん。
お母さんがお母さんで。

やはり、家庭は母親中心に回る。
お母さんはいつも笑っていなければならない。
家族をシーンと沈ませることは、やってはいけない。
一か八かのお宝を買うという愚行は、
もしかしたら、男性だけに許される特権なのかもしれない。

男性諸氏。
一つ勘違いしていることがあります。
万が一、その買い物がすごく価値のあるもので、
鑑定の結果、目が飛び出るような値段が付いたとしましょう。
それでも、その日から大切にされるのは、
その『お宝』であって、皆様ではありませんよ。
きっとね。多分ね。
まぁ、お銚子一本ぐらいは増えるかもしれませんが。





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