今年のテーマ



2017年1月5日(木)

お正月に、ちらりと目に入ったテレビ番組。
心理学者の人が言っている。

「年頭に目標を掲げた人は、掲げない人の○倍
その年の終わりには目標に近付いている」

なんか、そういうような内容だった。

一年の間、そのテーマのことを忘れていてもよいそうだ。
脳のどこかでそれを記憶しており、
無意識のうちに何となくそれに近づいているのだとか。

もしそれが本当であれば、
毎年このページにこうやって
「今年のテーマ」
などと大げさに宣言することも、
意味があるということだ。

そして、ぐっと気が楽になる。
一旦言葉にして記しておけばよいのだから。

これまでのテーマを振り返ってみると、
なるほど、一年間は忘れていても、
なんとなく頭の中にずっとあるような気がする。
そのどれもが「よしやった。充分遂行できた」と
ガッツポーズで叫べるほどではないが、
それでも足元の小石を積み重ねるように
一年を過ごしていたという実感はある。

なんせ書いておけばいいのだな。

ということで、今年のテーマ。
昨年の暮れから、何にしようと考えていた。

多くの人が口々に言う。
「来年は更に大変な年になる」
「何か大きな出来事が起こる」
「世界的な大恐慌も覚悟しなければ」
「諸国の首長がつぎつぎに国粋的になる」
などなど。
シアワセそうな意見が全く聞こえてこない。
世界はますます緊張状態に入るのだろうか。

元旦が過ぎ、
今年は浮かれ気分が早々と風に吹かれてどこかへ行ってしまったなぁ
と感じていたある朝、
目覚めのまどろみの中でつらつらとこれからのことを考えていた時、

柔能く剛を制す

という言葉が浮かんだ。

今緊張状態のますます激しくなる中で、
角の丸い柔らかさ、
強い力を一旦受け止めてやんわり流すという
日本人特有のものごとへの対処の仕方が
とても求められるようになるのではないだろうか。

一昔前、海外との交流が日常レベルになり、
グローバル化が声高に叫ばれるようになったころ、
私たちは自身を卑下するように
「曖昧な日本人」というレッテルを自分たちに盛んに貼った。

相手の話をうんうんと頷きながら聞き、
その意見に同意するかどうかよりも、
「今あなたの話を一生懸命聞いていますよ」と態度で示す方が大切だと思う民族性が
「意見を持っていない日本人」だと恥ずかしく思い、
情けない気持ちにみんなでなった。

かく言う私もそのうちの一人で、
自分を全否定した時期が何年かあった。

でも、あら? ちょっとまって?
今外国から多くの観光客が日本に集まって、
それでみんなニコニコと気持ちよく過ごしているのは、
そんな曖昧な日本人の柔らかさに触れて、ホッとしているからじゃないの?

初めての人に疑いを持たず、精一杯のおもてなしをする人たち、
この人たちの曖昧な文化、
柔らかい人あたりというものを求めてやってきているのではないの?
「まぁまぁまぁ。」
「とりあえずいっぱい。」
「そうはいってもねぇ。」
「なんとかなるでしょ。」

相手の力を吸収してやんわりと脇へ流す。
それこそが、今地球規模で求められているのではないだろうか。

そうだそうだ。
それだ。
柔は剛を制すのだ。
力に対して力で応えるのではなく、柔らかさで力を吸収するのだ。

だんだん頭が冴えてきた。

そんな中、
さて、harukiiはどうあるべきか。
何を商品に込めようか。
何をお客様に伝えようか。

包む。

次に浮かんだ言葉がこれだった。

そう、harukiiは包むものを作っている。
首を包む、肩を包む、背中を包む。
包んで守る。
包んで温める。

剛も柔も
大も小も
長も短も
みんなぜーんぶ包んで
それらを取り巻くいろいろな緊張から守る。
そして、緩めて温める。
それがharukiiの仕事。

なーんだ。
それか。
特別なことではない。
今年に限ったテーマではない。
harukiiは初めからそういうものをつくっている。
当たり前のこと。

それでも、今年のテーマは『包む』にしよう。
今ことさらに大切なことだと思うから。

『包む』

5年前に会社を始めたときから持っているテーマ。
社会情勢はどんどん変化しているが、
今年は今一度、初めに立ち返り、
『包む』をテーマにしよう。

今年一年、このテーマは
私の脳みそのどこに引っかかっているのだろうか。
その間、世界はどう変って行くのだろうか。

あーあ、
朝から頭使っちゃった。
もう一度眠りに引きずり込まれそうだ。
私のぼんやりした頭は、
柔らかな朝日に包まれている。

ああそうだ。
こうやって優しく包まれるのもいいな。
「委ねて包まれる」もテーマに加えておこう。





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